脳裏に貼り付くモラトリアム



「―――おい、まて……っ!」



「――待つんだ……!」




「――――……い……な……」




「―――待ってくれ……!」





誰かが誰かに向かって必死に叫んでいる。
それはまるで、殺される直前のような響き声で――







「はぁ……」


無意識に吐き出された溜め息が、雑音の中に放たれた。
だがそれに気づく者は誰ひとりとなく、周りを包む雑音に混ざって揉み消された。


溜め息を吐き出した彼の名は井槻薫。
とある県警の一課に配属された若い刑事である。
年齢はまだ若いにも関わらず、過去に出した大量の優秀な経歴は数知れない。

それが認められてかつい最近、警護課である六課から刑事課である一課に配属されたのである。


疲れきったように吐き出された溜め息とこの経歴が何を示しているのかと言われればそれまでだが、彼にとっては大きな問題なのである。

薫は放りだされた椅子をデスクの方に戻してから散らばった書類をファイルに振り分け棚に直していく。
刑法の本や沢山の書類の下敷きになっていた報告書を見つけだすと、部長席がある方へと足を進めていく。
向かいからやってくる同じ課の人間にぶつからないよう避けながら、
やっとの思いで目的の場所まで辿り着くと、何枚かに束ねられた報告書を上司に渡した。

事を果たして自分の席へと戻ろうと方向を変えると、背後から名前を呼ばれ仕方なく向きをかえた。


「なんですか?」

「今回の事件もあっさりと解決したようだな。素晴らしい経歴を持っているだけのことはある」

「はぁ……それはどうも」

「しかし、一般で言えば君の年齢ならまだ交通安全課にいるだろう。なにか手でもまわしたのかね?」


またか。とでも言うように肩を落とした後、短くいいえと返した。

彼みたいにまだ若くして好成績をあげていく人間を嫌っているのだと言うことが、言葉の吐き出し方だけで理解できる。


否定の言葉を相手に伝えてみたものの、肝心の相手はそれに納得できないような表情を浮かべた。
疑いの目を向けてくる相手には、何度言っても意味をなさないのだと、彼は改めて理解した。
薫は軽く頭を下げた後、雑音が行き交う中を裂くように自分のデスクへと戻った。

席に着くと部屋を一周見渡してみる。やはり刑事課である一課は休む暇もないのか、
中にいるほぼ全員が慌ただしくあちこちを行き来しているのが視界にはいってくる。
その反面、つい数時間前に事件を解決してしまった薫は報告書もあげてしまい、今はフリーの状態である。

何か回ってこないかと棚に手を伸ばしファイルを取ると、不意に今朝見てしまった夢が脳裏に飛び込んでき、顔をしかめた。
そして見た映像を思い出そうと静かに目を閉じた。

うるさかった雑音は次第に薄くなり、頭に焼き付かせた世界に入り込んでいく。


真っ暗な場所が広がり、どこに何があってどういった構造になっているのかも分からない。
何も見えない代わりに、ふたつの異なった声色が響く。
しかし、はっきりと聞こえるのは片方の声だけで、もう片方の声は途切れ途切れに言葉をつむぎだし、何を言っているのかさえも理解することができない。


真っ黒だった視界に目が慣れたかのように、うっすらだったが人影がふたつ、ゆらりと浮かんできた。
その場にいる訳ではないのに、まるで自分がその光景を見ているかの如く映像や声、感覚が入ってくる。
だが、頭にはっきり響くのは片方の声だけで、もう片方の声は途切れてでしか入ってはこない。


うっすらと見えるふたつの影から想像するに、この光景がいいものではないと言うことは直感で理解できた。



突然、空間の空気が変わった事に、薫は神経を研ぎ澄ませる。

それを確定づけるかの如く、はっきりと聞こえていた方の声が、相手に懇願するような言葉を並べだした。
が、もう片方の声はそれに対応する気はないのだろう。
懇願する声が次第に大きくなっていくのが手に取るように分かる。
小さく何かを呟く声がしたかと思うと、その次にはもう、懇願する声は聞こえなくなった。


始めと同じように、ただ真っ黒な風景だけが薫の頭に残った。
その中にゆらりと立つひとつの影は、風にでもさらわれるように、すっと消えてしまった。
地を這うようにして横たわった影は、動くことも、声を出すこともせず、何事もなかったかのように消えてしまった。

残ったのは、光を受け付けようとしない、真っ暗な映像だけだった。


不意に自分を呼ぶ声が暗闇に混ざって入ってきた。

その瞬間頭の中に広がっていた真っ黒の映像が取り払われ、自分が身を置いている場所にゆっくりと引き戻されていくのがわかる。
それと同時に、徐々に雑音が入り交じって耳に届く。
閉じていた目をゆっくり開くと、先程と同じ慌ただしそうな光景が視界に飛び込んできた。
遠い世界から引き戻されたのだと言うことがここまできてようやく頭が理解した。

じっとその様子をみているとまた自分を呼ぶ声がし、遅れてだが、それに反応をみせるよう首を後ろにまわす。
立っていた男は呆れた様子で彼を見ていたが、慌てているような感じが受け取れない事から、彼の不思議な部分を理解している人物だと分かる。


薫は後ろに向けていた顔を元に戻して、何事もなかったかのように手にしていたファイルに目を通しだした。
すると後ろに立っていた男は、苦笑い混じりの溜め息をついてから再び薫に声をかけた。
上から降ってきた声にもう一度反応をみせると、男は途切れさせた言葉の続きを吐き出した。
大して用事がある訳ではないようだったが、暇をもて余しているのは薫だけではないらしく、
人の行き来が途切れることのない透明の出入口を指して意思を知らせる。

何を伝えたいのか理解した薫は何か言葉を口にするでもなく、目を落としていたファイルを閉じて、元の位置へと直した。


椅子に埋まった身体を持ち上げて男の方を向くと、「行くんだろ?」と一言告げてから、相手よりも先に足を動かした。
静かに立っていた男は、先に外へ出て行こうと出入口付近まで到達した薫のを追って行く。


慌ただしい流れに混じる足音に、周りからひどく冷たい視線を浴びせられている気分に陥る。
だが薫も、隣を歩く男も、そんなくだらない事に目を向ける事なく、エレベーターの隣にある階段を登っていく。
屋上に出るために設置された階段は、この慌ただしい中で滅多に使われる事がないせいか、
肉眼でも分かる程に埃は厚くなっていて、ほとんど利用されていない事を改めて理解させた。

積もった埃に、ふたりの足跡が残って行く。
これが新雪の中なら綺麗な情景を作り出すだろうが、
掃除されることなく忘れさられた為に積もったものとなれば、その情景は単に美しくないものとして認識される。

後ろを振り返った薫は、そんなくだらないことを考えた後、前に向き直り再び足を屋上へと向かわせた。


階段が手入れされていないとなれば、もちろんその先も同じ状態である可能性が高い訳で、
屋上と階段を仕切る扉の鍵は外から幾度となく吹き付けられた雨や水滴によって、今にも壊れそうな状態に陥っていた。
そんな状態だったからか、鍵は音を立てていとも簡単に取り外された。


「ここの人間はこの場所の事、忘れてるのだろうか」

「鍵がこんなにボロボロになってるくらいだから忘れてるかもな」


薫の言葉にそう返してから、男はドアをぐっと外に押した。
古くなり手入れの行き届いていないドアは、塗装されたペンキをぽろぽろと零しながら、鈍い音を立てて開いた。
ドアが開かれると、冷たくも温かくもない半端な風がふたりの頬を掠めた。

しかしそれが不思議と気持ち良く感じて、薫は静かに目を閉じた。


そんな彼に、先に外へと移動していた男が声をかけた。
静かに目を開いた薫は自分を呼ぶ相手の姿を捜して視線を泳がせる。
左右に目をやり姿を捕えると、迷うことなくその方向に足を進ませていく。
男は両腕を左右に大きく広げて目をつむり、大きく息を吸い込んでいた。
隣まで歩み寄ると、横目でチラリと様子を伺ってから呆れたように溜め息を零してフェンスに寄り掛かった。


どうもこの日の風は普段よりも強く吹いていたのか、荒々しく体に当たって通り過ぎていく。
ドア越しに感じたのとはまた違った風の動きに、姿はないがそれを捉えようしているのか、薫は目を細めて建物が並ぶ町並みを見下ろしていた。

風を直に感じ満足したのか、薫と同じようにフェンスに寄り掛かってから、しばらくして地面に腰を下ろした。
少し薫を上へ上げて息を漏らしてから、服の内ポケットに手を入れ、深いところに納まっている箱を取り出した。
箱の蓋を開けて中身を取り出そうとしたが、上から抑えられるような形で静止させられた。

音男の視線が薫に向くと、あからさまに嫌がるような表情を浮かべて相手を見返した。


「俺の前では吸わない約束だろ? 禁煙中だって何度言えば分かる」

「そんな事言ったって、今日は忙しくて一度も……」

「うるさい」


男の反論を耳に入れるも、途中でそれを遮ってから、手に持っていた箱を取り上げてフェンスの外に箱を持って行く。
箱の形状や持った感覚の重さから、中身がまだ新品だと言う事が分かる。
薫の行動を見た男は、このまま反論の言葉を並べても相手を煽るだけだと理解し、自分に非があったと認めるような動作をして薫の気を落ち着かせた。

男が慌ている様子を見ても、しばらくの間自分の行動を貫き通している薫だったが、
相手が先程と同じ行動を見せないだろうと分かると、フェンスの外でちらつかせていた箱を内側へ移動させてから微笑んだ。
その笑顔がとても恐ろしいものだと気づいた男は、浮かべた笑顔を引き攣らせて相手を見た。
行き場をなくした男の両手は、空間の中で寂しく宙に浮いていた。
持っていた箱を男に返してから、自分も同じ様に隣に腰を下ろした。
自分の元に無事戻ってきた箱を、今度は取られまいと急いで胸ポケットの中にしまい、横目でチラリと薫の方を見る。


視線に気づき、何かあるのかとでも言いた気な表情を浮かべて自分を見る相手に、男は首を左右に激しく振った。
すると薫は何を言うでもなく、ゆっくりと顔を空に向け、じっと見つめていた。
それに習うように男も顔を空に向けて青い中に浮いている真っ白な綿雲の動きを追っていく。
流れはとてもゆっくりとしていて、無限に広がる青に映えた。
時間が流れるのを忘れるようにその光景をじっと見つめていると、何を思ったのか、薫が口を開いた。


「あのさ」


その声に気づかないのか、男はじっと空を見つめたままで、動きを見せなかった。
たまに何を考えているかが分からなくなる男の姿に、一度は用件を伝えず終わらせようとしたが、
伝えないままではどこかがむず痒くなるような感覚に支配された為、今度は言葉と行動を組み合わせて相手に話し掛ける。
これで気付かなければ何に神経を集中させているのかと言いたくなるが、さすがに体に触れられれば感覚が伝わる訳で、
薫が自分を呼んでいる事に気付き、擬音語と捉えられるような音で返事を返した。

男の意識がしっかりと自分に向いている事が分かると、男の方に向いていた体を動かして背中をフェンスに密着させて、先ほど発した言葉の続きを口にした。


「ちょっとさ、気になる夢見たんだ」

「気になる夢?」


男は薫の言葉に興味を示したのか、フェンスから体を離して少しだけ身を乗り出して話に耳を傾けた。
探し出せば直ぐに出てくる記憶を淡く脳裏に浮かべながら、今朝夢に見たことを簡潔にまとめて話をした。
暗闇の中でふたつの人影を見たこと、片方の人影が命ごいをしていたこと、そして最後にはどちらの陰もフェードアウトするかの如く消えてしまったこと。
薫の話を聞き終えた男は口許を右手で覆うと、喉の奥から吐き出すよう小さく唸り声を上げた。
どうやらこれら一連の動作は、男が考え事をする時に表れる癖らしく、そのことを理解している薫は、ただじっと男の横顔を見つめていた。
普通ならただの、なんともない夢だろうと笑い話にされて終わるような事柄を、男は真剣な面持ちで考え込んでいる。
何事もしっかりと受け止めるところが、この男の良いところであり悪いところであると薫は知っている。 だから薫はこの男に自分の夢話を持ち掛けることにしたのだ。
普段は朝目覚めるとすっぽりと抜けてしまう夢話が、今日に限って名残惜しむよう頭の隅で残っていたことに、奇妙な違和感を感じていたのだ。
まだ経歴は浅いものの、警察官という肩書きを持つ薫は、この微かに浮かび上がる淡い夢話に不信な臭いを本能ながらに嗅ぎ付けているようだった。

「……お前が見たこの夢に、何か臭うものがある。そう言うことなんだよな?」

「本当は俺にもよく分からない。……でも、何か妙な違和感が尾を引いてるような、そんな気がしてならないんだ」

「妙な違和感……か。俺の頭じゃ絞り出せることなんて本当に少ねぇだろうがしゃーねぇな、一緒に調べてやるよ」

男は薫の肩を数回叩きながら大口を開けて苦笑いを浮かべた。
ふたつかみっつ程年の離れたこの男が、幼くも、頼れる人間のように見えた薫は、薄らとはにかんで返した。



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他の作品も連載途中ですが、この後に繋がる長編を更新したいが為に始めてしまいました。
地道に進めていく予定です。

2009.08.03 up...