に映るしき面影
激しい音を立てて、部屋の障子が開いた。
頭の中で分かってはいても、体は私の言うことを聞いてはくれない。
大きな音を立てながら近づいてくる足音に薄っすらとだけ目を開けると、部屋の天井がぼんやりと映る。
無理やりこじ開けた目が抵抗してくるからなのか、視界に入るもの全てに一枚の膜がかかっているようだ。

何度か瞬きを繰り返すと、さっと膜が取り払われたように目に映るものがクリアになる。
目を動かす作業に抵抗することを止めたのだろう。多分。

だが、体はまだ完全に目を覚ましてはいないようで、動かす度に重みを感じた。
布団に挟まれたままゆったりとした動きを繰り返していると、温もりで包まれていた体の温度が少し下がった。
寒いと頭で思う前に体が反応して、今まで温もりを作っていたものを探す片手。
いくら体が眠っているからと言えども、こういった時は素早い反応を示す体が面白いと思う。

ただ、動きを繰り返す手がずっと空を切っているのは虚しいのだが。


唯一覚めている体の一部で辺りをぐるっと見渡してみる。
目に映るのは普段と変わりない光景なのだが、一周を終えると言うところで動きを止めた。
動きが止まると言うことは、何かを捕らえたと示しているのである。
それが何なのか、頭の中に詰め込まれている記憶から探し出す前に低い音が耳に入ってきた。

こうも一度に沢山の情報を整理しなければならないのは、少し困ってしまう。
目が覚めた直後の私の頭は、きっとルーズな性格をしているのだ。
それなのに、頭の中で整理している最中に次から次へと事が進んでいくものだから、私の頭が悲鳴を上げている。

「おーい、起きてるかー?」

起きてはいる。
先ほどとは違って、体はちゃんと考えたことに沿って直ぐに動きをみせるから、それは確かだ。
でも、頭はまだしっかりと目を覚ましてはいない。
情報を整理する速度は上がったと思うのだが、まだ遅い。
完全に目を覚ましているとは言いがたいので、一先ず首を横に振っておいた。

「まだ頭が寝てるって言いたいんだろ。それは分かってるけど、まぁついて来い」

そう言った後、体が地面の上を滑らかに滑っていく。
動かした目に自分の腕ともうひとつ、腕が映っていたからきっと引きずられているのだろう。
完全に目が覚めるまで待ってくれてもいいのにとは思うのだが、先を歩く後ろ姿が楽しそうだったので黙っておいた。

体を引きずられたことから生まれる痛みで、頭の回転速度が普段の状態に戻る時間は速かった。
完全に普段の状態へと戻ると、情報を整理する速度は格段に上がる。
なので、今把握しきれていないことを考える。
なぜこんな状態なのかと言うのも疑問だが、その前にまず、誰がこんな状況を引き起こしているのかと言う方が先だ。

私は目を前へと向けて、後ろ姿を整理していく。
黒い着物に、短く切られた黒い髪。肌は、小麦色より少し薄い。この状況から身長は分からないので省いておく。
得た情報と、元々頭の中に詰め込まれている情報を当て嵌める作業を繰り返した。
最後に辿り着いた情報に付けられた名前を口にすると体が止まった。

手は掴まれたままだったが、前を歩いていた人はくるりと後ろに返って私と同じ高さになる。
腰の位置を低くしたのだと、少し遅れてから理解した。
顔が直ぐそこにあったので目が合っていることも分かるし、空いた手が人差し指を立てていることも分かる。
きっと、今言ったことをもう一度繰り返せということなのだろう。

「凛太郎さん」

「はい、よく出来ました。ちゃんと目ぇ覚めたか?」

「覚めました。正確には少し前からですけど」

「あーはいはい。で、立てるか?」

「……立てます」

床に手をつこうとしたところで、片腕がまだ握られたままだということを思い出した。
手を離してくださいと言い掛けたところで、目に映っていた景色が変化した。
いつの間にか腰を上げていた凛太郎さんに腕を上に引っ張られているのだと気付いた時には、もう体が起きていた。
少し高い位置にある顔を見上げると、腕が前に引かれる。
行き成りのことに足がもつれそうになるが、なんとか体勢を持ち直してそのまま後ろをついて行く。
目的地に辿りつくまで、握られた腕はこの状態を保つのだろうから、少し余所見をしても問題はないだろう。

そう思って顔を外側に向けてから初めて気付いたのだが、辺りはまだ瑠璃色をしていた。
視界に入るところ全てが同じ色で塗り固められていたので、時間を知る術がなくても感覚で分かる。
夜にも、明朝にも遠い時間だと思うと、急に辺りが静まり返ったような気がした。

それなのに目の前を歩くこの人は、なんとも楽しそうに歌を口ずさんでいる。
外側の景色と不釣合いすぎて逆に落ち着かない。

「あの、凛太郎さん」

「何だー?」

足を止めることなく、首だけをコチラに向ける。
それが危なっかしいのだが、この人は変なところで感覚が鋭く、直ぐ目の前に迫っている柱も軽々と避けていく。
何度同じ状況に出くわしてもこれには慣れない。
注意する度に大丈夫だと言って軽くあしらわれるのだが、私にしてみれば不思議で仕方がない。
曲がり角に差し掛かった先ほども、思わず冷や汗を流してしまいそうになるところで軽々と柱を避けたのだ。
あまり変わっていると言われることのない彼だが、私個人の意見的には変わり者だと思う。
それを口にすれば、俺よりもお前の方が変わっていると言われるのは目に見えているので黙っておく。

「こんな時間に歌を口ずさむなんて迷惑になりますよ。それに、どこへ何をしに行くんですか」

「んー、楽しいところに楽しいことしにかなー」

「……答えになってません」

少し呆れたように溜め息を吐くと、満面の笑みを向けられた。
その表情が、今とても楽しいのだと主張しているように見えてしまって、もう何も言えなかった。
私が口を閉じて大人しく後を歩くようになると、凛太郎さんは後ろに向けていた顔を前へと戻した。
辿り着く先が分からないと、いつまでこんな状況が続くのかと肩をすくめるしかなくなる。

仕方がないので辺りの静けさに耳を向けてみることにした。
静かだと言っても、虫が奏でる音も風が音を立てて去っていく様は残っていて、それを耳にするととても心地がよい。
普段は感じることのできない風景や音を身に感じて、ほんの僅かだが心が柔らかくなった。

──そう言えば最近、こんな風にゆったりとした時間を過ごしていなかったかもしれない。


相変わらず歌を口ずさんでいる彼は、そのことを知っていたのだろうか。
だから、わざわざこんな時間に起こしてまで私を連れ出したのだろうか。

無理矢理起こされたことを考えるとあまり気分はよくないが、完全に目が覚めてしまった今ならどうでもいいことに思えた。
知らぬうちに笑みが零れていたことに気付くと、少し恥ずかしくなり後ろ姿を見上げる。
凛太郎さんは私の表情にも視線にも気付いてはいないようで、ただ楽しそうに手を引き歩いていた。
私は薄っすらとだけ笑みを浮かべた後、彼から外へと視線を向ける。

先ほどと同じように、虫と風が共に音を奏で流れている様子が、とても綺麗だと感じた。
奏で出される音が真っ直ぐに、私の心の奥へと入り込んでくるようだった。
深いところで感じるままに目を閉じると、血の流れに合わせて全身を巡っていくような、そんな感じがした。

ふと、彼の足が止まった。
辺りに気を配っていなかった所為で直ぐに反応できなかった私は、そのまま彼の背中にぶつかってしまった。

「おっと、大丈夫か?」

「……すみません、大丈夫です」

埋めてしまった顔を離すと、ふんわりとした甘い香りが開いた穴を通して体の中に入り込んできた。
ぶつかってしまったことへの驚きよりも、後にきた甘い香りが強く残っていた。

──彼は、こんなに甘い香りを漂わせていただろうか。

そんな疑問がふと頭を過ぎった。
加えて、先に感じた甘さの中に紛れこんだ後からくる哀愁を遅れて感じたような気もした。
眉を垂らして顔を上げると、それを阻止するように頭を押さえつけて髪をくしゃりと荒く撫でた彼。
私が顔を上げることを拒んでいるのではないかと感じた。
そして私自身も、無理やり手を押しのけて顔を上げてはいけないのだと思った。
いつの間にか変化していた彼に戸惑いを感じた所為でもあるのだが、それとは違った何か、別の理由もある気がした。
時間にすればほんの一瞬だったかもしれない長い時間の後、彼は私の髪からから手を離した。

これは多分、もう顔を上げてもいいと言う合図なのだと思い、どんな表情で彼を見るか考えながらゆっくりと顔を上げた。
思った通り、彼はいつもと変わらない表情を貼り付けていた。
それを確認できたことで、私も普段と同じような表情で彼を見上げれたのだと安心した。

「さてと。後少しで着くからな、ちゃんとついてこいよ」

凛太郎さんは柔らかい笑みを浮かべて私の腕を握り直した。
こくりと頷くと、さっと体を前に戻して先ほどと同じように危なっかしい足取りで先へ進んだ。
不意に浮かべられた笑みに違和感を感じた気がしたのだが、きっと気のせいだったのだろうと思う。

そう、気のせいだ。

それなのに、どうしてか私は彼の背中さえもみることが出来なかった。
じっと地面に視線を貼り付けるようにして進まなければならないような、そんな気がした。
でも、これもきっと気のせいだろうと思う。

チクリと胸を刺すような痛みを感じるのも、きっと、気のせいだ。

私はそっと目を閉じて、彼が手を引きながら案内する道のりを辿った。
数回角を曲がりながら長い床を歩いていくと、定位置で引かれていた腕が強く、それでいて優しく手前に引かれた。
彼の横を通り抜けるのを感じ、ようやく目的地点に辿り着いたのだと分かり目を開いて辺りを見る。
少し広めに造られた庭に灯篭や池、程よく生え揃えられた草木が目の前に広がっていた。
とても見慣れている景色だというのに、初めてくる時間帯の為に理解するのが遅れた。

「ここって、裏庭ですよね……?」

「そ、裏庭」

「これが楽しいところ、なんですか?」

「まぁ……そうだな」

ただ疑問に思ったことを口にしただけなのに、彼は口ごもったあと少し困ったように答えた。
だからか、後に続ける為に準備した言葉をそのまま喉の奥へとしまい込んでしまった。

私が彼にした質問はおかしなものではなかった思う。
なのに、続きの言葉を吐き出すことができなかったのは何故だろう。
先ほどなかったことにしてしまったものがふと頭に浮かんできて、答えを返す彼の表情と重なった。

途端、また胸の辺りがチクリと音を立てて揺れた。……そんな気がした。
どうして心が揺れているのだろうと考えると、同じようにまた胸が痛んだ。

何故──。どうして──。


「斎(いつき)」

急に名前を呼ばれたことで体が上下に揺れた。
声の大きさから、いつの間にか私と距離を置いたところに居ることが分かった。
考える程に生まれ出る情報を整理できず、留(とど)めたまま声のした方へ視線を向けると──居た。
まだ暗闇が辺りを覆っていると言うのに、彼を探し出すことなければ一寸も距離が狂うことなく、目が合った。

まるで、彼の元へと手繰りよせられるかのようにあっさりと。


「凛、太郎さん……?」

私から出た声は、無理やり絞りだしたように少し掠れていた。
それに、多分少し震えていた。

どうしてか、出してはいけないものを出してしまったように感じて、咄嗟に口元を覆ってしまった。
一連の動作は無論彼に伝わっている訳で、目を逸らしてから困ったように頭を掻いた。
その様子は、はっきりと目に映っていた。そう、はっきりとこの目に。

──はっきりと。

瞬間、同じ単語が頭の中で繰り返すようにループする。
私の中にある何かを掻き立てるように繰り返えされる。まるで、テープが巻き戻し再生されるように。

繰り返される言葉がスイッチを押したみたいに、留(とど)まっていた疑問が巻き取られて頭の中を回り出す。
その度に胸の奥の痛みが増していき、波打つ速度が上がっていく。
これが、とてつもない嫌悪感を抱かせて、その場に思わず座り込んでしまった。
胸の辺りが痛くて、着物の上から抉りとるように爪を立ててギュッと掴んだ。
このまま胸元に手を押し込み続ければ、本当に心臓まで届いてしまうのではないかという程に、強く。
胸に爪を立てた痛みからか、それとも別のヶ所からの痛みからか、目下の袋には水が溜まっていた。

「そんなことしたら傷になるだろ」

胸を押さえる手にそっと触れられただけなのに、私の体はまたピクリと上下に反応してしまった。


「り、んたろ、さん……」

私に触れる手は全てを包み込むようにとても優しく、そして暖かかった。
身を通して感じているのに、頭の中で廻り続けるものも胸の痛みも治まりはしなかった。
安心するのが当たり前なのに、彼を目の前にしたことで廻るものも痛みも何もかもが増した。

私は、すがるように手を握り返した。

凛太郎さんに言われて部屋を抜け出し、彼の手に腕を引かれて後ろを歩いた。
ぶつかってしまった後に頭を荒く撫でる手があり、彼は変わらずおかしな歌を口ずさんでいた。


「おかしなところは、なに、ひとつ、ない」

口に出さなければ駄目なような気がした。
何もおかしなことはない、それは気のせいなのだ、と自分に言い聞かせるように。
私の手に触れていた凛太郎さんは小さく声を漏らして、笑った。
ふいと顔を上げると、笑みの中に違うものが紛れ込んでいることに気付く。

「斎、ごめんな?」

撫でられたと思った頭には、触れられた感覚が落ちてこなかった。

「──あ」

困ったように笑う顔と、彼の手が落ちてこないすり抜けたような感覚に小さく声を零した。
今まで廻り続けていたものと胸の痛みが、何もなかったかのように治まる。

どうして彼から漂う香りが違うと思ったのか、どうして向けられた笑みに違和感を感じたのか。
どうして彼の背中を見直すことができなかったのか、どうして闇に包まれた彼を見つけることができたのか。
どうして頭の中で訳の分からない情報が廻るのか、どうして取り去ってしまいたい程に胸が痛むのか。
どうして、伸ばされた彼の手が頭に振ってこないのか、どうして彼がとても困ったような声色で謝ったのか。

どうして、私は彼に連れ出された時に、ゆったりとした時を送っていなかったと思ったのか。それは──


「私、思い出しました。凛太郎さん……」

「うん、よかった」

「ちっともよくなんか……!」

伸ばした手は、彼の体をすり抜けた。
行き場をなくして彷徨っている手をゆっくりと引き寄せて、ぎゅっと強く握り締めた。

「どう、して……。こんなにもはっきりと見えてるのに、どうして……!」

強く唇をかみ締めて顔を上げると、返答に困った様子の彼は苦笑いした。
手が彼の体をすり抜けたことで、触れることはできないということに確信を持った。
こんなことならば、気付かない振りを続けていればよかったと手を地面に着くと、彼は横に首を振った。
それはいけないことだと言っているようだった。
それがとても悔しくて、力を入れた指先が地面にめり込んで悲鳴を上げた。

「思い出してくれて、俺は嬉しい」

「でも……っ!」

「お前にはちゃんと覚えておいて欲しかったんだわ。……多分他の奴らは直ぐに忘れちまうからさ。だから、ありがとな」

「貴方が、そうさせたくせに……っ」


私の気持ちなんか知らないで。と言いかけて、後悔した。
顔を上げた先に映った凛太郎さんの表情が、とても淋しさを帯びていたから。

ひっかかっていたものを思い出してしまったことは、辛い。
思い出してしまったことで触れることができなくなってしまったことも、辛い。
もう、彼の声や背中や体温や全てをこの身で感じとることができなくなるというのはとても、辛い。

でもそれ以上に、誰かに忘れ去られてしまう方が、辛い。

誰かの体温を感じることができ、この身で全てを分かちあうことが出来る私とは違うのだ。
世界のたった一部でしかない彼や私は、一瞬の波を過ぎ去ると最初からなかったことのようになる。
ひとつ穴が開いても、その淋しさや切なさを紛らわすために人は忘れると言う行動を無意識のうちにとる。

私自身も、そうだ。

なにかをなくすのは辛すぎた。特に、大切なものをなくすことは。
毎日同じことを繰り返しているのに、いつも、いつも何かが足らず苦しかった。
だから私はそれを隠すために、忘れた。この身でありのままを受け止めることが出来ずに、忘れてしまった。

……本当は忘れてはいけなかったのに。

私が、一番彼のことを覚えておかなければいけなかったのに、自分が辛いからと言って消してしまった。
私が忘れてしまうことで、彼の存在を二度消し去ってしまうことになるというのに。


「ごめんなさい……。凛太郎さん、私……!」

ぎゅっと引き寄せられた。 さっきまでは触れることすら出来なかったのに、今はすっぽりと彼の腕の中に納まっている。
その上、彼の温度も力強い腕も全て、着物と皮膚を通して伝わってくる。
思い出した真実が嘘なのではないかと思わせるくらいに、彼の存在がそこにあった。
しかし、耳には届かない彼の鼓動が、夢の中に入り込みそうな私を現実へと引き戻す。

「さっきはすり抜けたのに、どうして……」

「さぁ……最後だからって仕方なく触れられるようにでもしてくれたんじゃねぇ? あの人、気紛れで意地悪だから」

あの人とは誰なのだろう。神様か何かだろうか。
そんなことよりも、と私はかぶりを振った。
彼が口にした最後と言う単語が頭の中で強調されて木魂した。

そうだ。私が何もかも全てを思い出したから、もう最後なのだ。

その単語を頭の中で繰り返すと、彼の着物を握る手に力が篭っていく。
着物を握る力が強くなったことを感じたのか、彼はふっと柔らかい笑みを浮かべて私の頭を優しく撫でた。

先ほど感じた甘い香りがそっと鼻を掠めた。

あぁ、これは彼の香りだと理解すると、不思議と安心して力を込めていた手が柔らかくなる。
それを確認した凛太郎さんは、回していた手を離して私をそっと引き離した。
途端、感じた安心は消えて急に切なさと淋しさがこみ上げてくる。
その中に、彼が目の前から消えてしまうのだと言う確信も芽を開かせる。

だが、引き止める手を伸ばすことはできなかった。
もし手を伸ばして彼に触れられることができなかったら、と体が行動を制止させた。
伸ばしかけた手を引っ込めて胸元でぎゅっと握りしめて彼を見る。

「忘れんなよ。俺も忘れねぇから」

「……忘れません、絶対に」

絶対に、なんて言い切れる筈はないのに、自分の心に誓いを立てるように付け加えた。
それを分かってか、凛太郎さんは少し困ったように笑った。
私が無理なことでもやり遂げると言った時と同じような笑い方でコチラを見ていた。
その姿が次第に薄れていることに気付き、私は溢れ出してしまいそうになるもの全てを抑えて笑顔を浮かべた。

いつ現れたのか分からない月が、雲の隣で霞んでいる。
あぁ、この月に溶かされて薄れているのだなと、何故かそう感じた。

感じただけではあるが、そうで間違いないと言う確信がどこからか沸いてでてきた。
その通りに月が揺らめいて彼が薄れていっているのが、少し悔しかった。

わざわざ薄らせて消すなんて性質が悪いと思いながらも、もう直ぐ消えてしまうのだと言うところまでいくとやはり切なさが増す。

「斎」

最後に彼が私の名前を呼んだのだと分かり、しっかりと目を彼に向けるとゆっくり彼の口元が動いた。


「          」

しかし、名前を呼んだのを最後に、もう、彼の声は聞こえない。
だが彼の口元は不思議とはっきり見えていて、何を言っているのかを目の奥に焼き付けた。
何かで巻き取るように、するりと言葉が入ってくる。
その言葉にはっとして慌てて彼の元へと走り出した。

「凛太郎さん!!」

辺りには私の叫び声だけが響いた。
私の言葉が届ききるか分からないところで、まるで月に吸い込まれるように彼は消えた。
彼が言った通りだ。

『あの人』
……そんな風に呼ばれた人は、本当に気紛れで意地悪だ。
彼にはあんな言葉を言わせておいて、私には言う時間をつくることなく消し去ってしまうなんて。

ほろりと、目下の袋に溜まりきった水が零れ落ちた。
それを引き金に一滴、また一滴と容量を超えた塩辛い水が頬を伝った。
彼の名前を口にしても私の声だけが響き渡るだけで、何も返答はない。

やはり、そこに彼がいないと言うのは辛すぎる。
先ほどよりも激しい痛みに胸が支配されているのではないかと感じる。
苦しすぎて、淋しすぎて、辛すぎて、何もかもを忘れてしまいたいくなる。

でも、それではいけない。約束は守らなくてはいけない。
絶対と言い切った約束、彼と互いに交わした約束。
どんなに辛くても、私には彼との約束と言う繋がりがある。
悲しさの中に紛れ込んだ沢山の優しい思い出がある。どんなに悲しいものよりも勝ったものが。

そう考え直すと少し、ほんの少しだけ心が軽くなった。
強く握り締めた片手の甲で涙を拭い去って、彼を繋いでいたであろう月を見上げる。
綺麗な満月。しかし、薄っすらと霞がかっているのが分かった。
一呼吸してから顔をあげて、月を目に焼き付けるように視線をやる。

月と彼は繋がっていた。
ならば、この霞んだ満月が空に上がる時に裏庭へ足を運べば、優しく甘い香りがするのかもしれない。
彼の香りを纏った風が、私を迎えてくれるかもしれない。

『あの人』は気紛れで意地悪だから。


「……そうですよね、凛太郎さん」

ふわりと、優しく甘い香りを含んだ風が返事を返すように過ぎ去っていく。
彼は嘘をつくような人ではない。
だから、この風がもし本当に彼の香りを含んだものであるなら、きっと大丈夫。
いつでも、傍にいてくれる。
私はもう一度、目にしっかりと焼き付けるように月を見上げる。


──ずっと、傍にいる

そんな声が、どこからか吹く風に乗って届けられたような気がした。


以下反転であとがき
久しぶりの更新でした。
しかもなんともタイミングよくバレンタインの日に完成すると言う小咄。
最初は凛太郎さん生きてる設定でしたが、いつの間にかこんな結末に……!
なんだかもう個人的には初の切甘恋作品になりましたねー。
斎(いつき)と名前を男女どちらでも大丈夫なようになってますので、どちらでお楽しみいただいても結構です。
最初はこんな甘くなる感じじゃなかったので、実は男の子設定になってるんですけどね!

閲覧頂きありがとうございました!ブラウザを閉じてお戻りくださいませ。
(更新日とか →) 2009.02.14