色の
アイツは泣いていた。
まるで、自分の存在がぽっかりと抜けてなくなってしまうんじゃないかというくらいに。
なくなってしまうのはアイツではなく俺の方なのに、自分のことのように声を荒げて涙を拭っていた。
当人である俺は、消えてしまうことについて何も感じることはないというのに。


医者が言うには、俺はどうやら今まで病名として挙げられたことのない奇病にかかっているらしい。
その奇病は、身体にはこれといっておかしな症状が表れることがない為、自分では全く気がつかない。
やる気がなくなる訳でもなければ、風邪をこじらせたような咳が出る訳でもない。
かと言って、胃の調子が悪いなどと身体の内部におかしな現象がみられる訳でもない。
病気のような症状自体、なにも表れはしないのだと。
だから俺自身が何かを感じることなく病気は進行していくらしい。

医者にそう告げられた時には、そのことさえも、俺には理解できなかった。
この頃には既に、何も感じはしなかったのだ。
なぜ何も感じないのかというと、この奇病が最初に奪ってしまうものが人の感情というものらしいからだ。
だから俺には、どこがおかしいのかが分からないし、今アイツがなぜそんなにしゃくり上げているのかも分からない。
悲しいことや楽しいこと、喜怒哀楽の全てを理解することが不可能なのだ。


それを何事でもなく淡々と言ってのける俺の姿を見て、アイツ……柴田は泣いた。
その行為は俺の無表情さに対してなのか、それとも俺が消えてしまうことに対してなのかは分からなかったのだが。
だが、少なくとも双方に対して泣いているのだということはなんとなく感じられた。
俺自身は病気がどうとか、消えてしまうことがそれ程にまで悲しいことだとかは分からないが、柴田にとっては悲しいことであるのだろうと。
滅多に涙を見せることのない男が子供のように泣きじゃくっているのだから、そうとしか考えられなかった。
だからと言って、今の俺には慰めの言葉をかけて包んでやることも、安心させる言葉をかけて笑顔をみせてやることも出来ない。
もちろん、行動に移そうと思えば出来ないことはない。
だがそれは、感情のこもっていない上辺だけのものでしかなく、それをしてしまえば、きっと今よりも柴田を苦しめてしまうのだと分かっているから。

ならばそのまま見なかった振りをすればいいだけのことだが、それすらも俺には出来はしなかった。


久しく見ていなかった柴田の泣き顔を目の前に、駆け寄ることも、逃げ出すことも、俺の中の何かが許さなかったのだ。


俺は屋上の入り口で足を止めたまま、ベンチに腰を掛けて肩を震わせている後ろ姿を、何をする訳でもなく、ただじっと見つめているだけだった。
外から中へと吹き込む風が、肌を触るように掠めていく。
外側から触れるその冷たさや暖かさを感じることはできるのに、俺を内側がら蝕んでいく病魔の感覚はなにもない。
こんな風に、俺は痛みもなく自然と一体化するように消えてしまうのかと思うと、なんだか不思議な気分だった。

奇妙な感覚に浸っていると、受ける風の力によって流されていくように体が後ろへと押されていく。
耐えるように足を踏み込んだ拍子にドアについた手のひらが、鈍い音を立てて辺りに響いた。

その瞬間何を思ったのか、俺はふと柴田が背を向けて座っていたベンチへと視線を泳がせていた。
俺が柴田を見たように、遠くからアイツも同じように俺へと視線を向けていた。
俺を見つめる柴田の瞳は、遠くからでも分かるくらい真っ赤になっていた。

目を逸らす暇もなく、柴田が俺の名前を呼びながら駆けてくる。
俺が保っていなくてはいけないと思っていた距離が、あっという間に短くなり、なくなってしまった。


「白石くん」


小さくそう呟いてから俺をじっと見つめる真っ黒で澄み渡った瞳に、俺はうんともすんとも言葉を吐き出すことが出来なかった。
ただ一言、なんでもいいから言葉を出してやればよかったのかもしれないのだが、それさえも出来はしなかった。
無音の時間が続いたあと、柴田は俺の服の裾を握り締めて、力なく頭を下げたままだった。
衣服を通して薄っすらと伝わってくる柴田の手の震えから、涙を体の奥へと押し殺していることが分かった。
その時ですらも、俺は行動としてなにかをすることが出来なかった。
柴田は、自分がどれだけ涙を流しても、どれだけ名前を呼んでも、もう意味を成さないのだと言うことを悟ったのかもしれない。
さっと俺の服から手を離すと、真っ赤な目を更に擦りつけてから顔を上げた。
そして、無表情な俺の顔を正面から見据えた後、悲しみを抑えたような笑みを作り出して一言。


「さよなら」


と言って、俺の横をすり抜けて消えてしまった。

走り去るように鳴る足音と、悲しみと淋しさを含んだ笑顔が交差しながら螺旋を描くように俺の中へと入り込んだあと、跡形もなく消えた。
抜け落ちた感情の中に、柴田を追いかけなくてはいけないと言う感情が沸いてきたのだが、それが正しいものであるかは分からなかった。
もしかしたら、アイツを追わなくてはならないと言うことを、本当は分かっていたのかもしれない。
でも、俺にはそれが出来なかった。
泣いている柴田を見て、これ以上悲しませない方法と言うのを無意識ながらに考えて、生まれた結論がこれだったのかもしれない。
しかしそれは、柴田自身の為ではなく、俺自身の為であるということも、少なからず理解していたのかもしれない。


俺が柴田を追わなかったあの日から、アイツが俺の前に姿を見せることはなかった。
同時に、俺の中からも柴田という人間がどんな奴だったのかと言う記憶が薄らいでいるのも確かだ。

それは柴田が俺の前から消えてしまったからではない。
この奇病は感情が欠如することから始まり、感覚もなく体を蝕みながら人の記憶という記憶を消し去った挙句、何も形として残さないからだ。
記憶が空っぽになるだけではなく、俺が存在していたと示す形さえも残ることがない。
つまり、柴田が誰であったかなんて分からなくなり、俺はあったようで、なかったものになってしまうということなのだ。

それを知って泣いていた柴田が、この先の状況に耐えられる訳がないと、あの時の俺はどこかでそう判断していたのだろうと思う。


そう判断させるくらいに、柴田という男は純粋だったのだろうと。


部屋のベッドに腰を掛けて、いつからあるのか分からない写真立てを見て、たまに考えることがある。
柴田にとって、あれは最後の賭けだったのかもしれないと。
「さよなら」と言って去ったアイツを、もし俺が追いかけていたのなら、今も柴田は目の前にいたのかもしれない、と。
思うだけであって、そうであって欲しいと願う心を持った俺は、もうここには存在しないのだが。


でも、あの頃の俺にとってアイツが大切だったということは、きっと何かが覚えている。



以下反転であとがき
以前のサイトで上げていた拍手のお話でした。
去年の最終更新になったお話なんですが、やっぱりゴミ箱行きですね……。
(更新日とか →) 2008.10.13