思いもよらない出来事に、オレは肩を落として足を止めた。
ざぁざぁと激しい雨が地面を叩き付ける中、建物の入り口を通り抜けると変調のない機械音が鳴った。
続いて中からは眠そうな面(おもて)でオレを見送る言葉を気だるそうに吐き出した店員。
後ろを振り向くのも面倒だとその場で立ち止まっていると、入り口が不協和音を響かせるように閉まった。
左手にはビニールの袋、右手にはつい先ほど増えてしまった荷物である透明な傘。
屋根が伸びているギリギリのところで顔を上にあげると、憎らしい程に激しい雨がこの地に降り注いでいるのが見える。
後方で目が眩んでしまう程の明かりがあるからか、暗闇の中に降り注ぐ雨がくっきりと形を残している。
「結局雨に足止め喰らっちまったっての。まったく、あの人の言うことは当てになんねぇなぁ……」
あの人と言うのは、夜間アルバイトとして雇ってもらっている店のオーナーのことだ。
高校生と言う身分である自分が、夜間のバイトをすることは法律的に禁止されているのだが、今働いている店のオーナーは気にしていない。
というより、駄目だとか無理だとか言わずに、快くオレを雇ってくれたのだ。
断られた時に説得するためだと用意しておいた言葉も、綺麗さっぱり忘れてしまうくらい拍子抜けしてしまったことを覚えている。
勿論、雇ってもらえることになったのは自分にとって喜ばしいことなのだが、なんだかこの国の未来に不安を感じてしまった気もする。
そんなお気楽なオーナーの好意で、今日は普段よりも早い時間に勤務を終えたのだが、従ったらこの様だ。
「雨が降るらしいから今日は早く上がっていい」と言ったオーナーの言葉通り雨は降り出したのだが、なんとも言えない気分である。
店に近い距離で降り出したのなら、店に戻って傘を貸して貰えばいいし、家に近い距離で降り出したのなら走って帰ればいい。
なのに、だ。
雨が降り出したのはどちらにも近いと言えない距離だった。
だからオレは今、このやけに明るい光を放つところで傘を購入する羽目になってしまったのだ。
ここまで絶妙な地点で雨が降り出したことに、今では関心すらしている。
しかし、だ。
オレの財布から無駄な出費が出たことには変わりない。
その文句をオーナーに言えればいいのだが、オレはそんなに勇気のある人間でもない。
結局オレは、あの人に雇われている身であって、そこをクビになってしまうのを恐れているのだ。
激しく降り続ける雨を見つめた後、右手にある傘を開いて残りの道のりを歩きだした。
夜も更けてしまっている所為か、辺りの家に明かりはなく、間隔を空けて並んでいる街灯の明かりだけが道標になる。
だが、人工の明かりだけが足元を照らしているのではないことは分かる。
遥か遠くで、雨のない夜よりも明るい空が顔を覗かせているからだと理解するが、それがまた不思議だ。
晴れた日よりも空が明るいなんて、誰がどう見たって不思議に感じるはずだ。
遠くの空を見ながらぼんやりとそんなことを考えていると、視界の端に見慣れた公園が映る。
しっかりと公園の存在が目に映りこむと、もう直ぐ家にたどり着くのだと足を速めた。
が、公園から目を逸らす際に揺れ動いた黒い塊にオレは足を止めた。
透明な傘の柄を握りなおして、公園がある方へと目を凝らしてみる。
いくら夜の道に目が慣れているからと言って、街灯から少し外れたところにある公園の様子は直ぐに分からなかったからだ。
しばらくの間、公園の中へ視線を留めていると、それが何であるのか理解できた。
ここでお決まりの幽霊なんてものが出てくればそれはそれで面白いのだろうが、そんな期待はあっさりと外れてくれる。
座り込んで傘をさす後ろ姿と、激しい雨の中に微かに聞こえる人の声と、何か違う声がひとつ。
オレは小さく溜め息を吐き、家がある方向から外れて公園の中へと足を踏み込んだ。
雨に紛れて、小石の混ざる土を踏む音が微かに響く。
オレが一歩一歩足を進めていくことで、座り込む黒い塊との距離が徐々に無くなっていく。
もうあと少しというところで、目の前にある黒い塊がゆっくりとオレの方へ振り返った。
まるで、オレの気配をしっかりと感じとりましたとでもいうように、タイミングは絶妙だった。
「ありゃ、豪くんやんか。こんなところで何してんの」
「……そりゃこっちの台詞だっての。こんな時間に、しかもこんなとこで何してんだ、お前ぇは」
「うーん、何してるんやろなぁ?」
庇いきれなかった雨に濡らされてしまった靴の先で壱の背中を小突くと、少し困ったように笑った。
そんな表情を浮かべた男が、なんだかオレは少し気に食わなかった。
気に食わないと、そんな風に感じているのはいつものこと。
だが今日はいつにも増して目の前に座り込んでいるコイツの起こしている行動が気に食わない。
そんな感情が、するりと体を掠めた。
正直なところ、この男の何が気に食わないのかと問われれば口ごもってしまう。
何をされても嫌な顔をしないところなのか、それとも次に起こす行動や壱という存在自体を掴みきれないところなのか。
多分、オレに理解できない部分が多すぎるからなのだと思う。
オレは小さく舌打ちをしてから、壱と同じ目線になるようにしゃがみこんだ。
「なぁなぁ豪くん、ちょっとこれ見て」
「あぁ? なんだよ」
オレが近寄りやすいようにと傘を斜めに向けて場所を空ける壱。
その後に空いている手で招く仕草を見せて、子供がせがむような素振りで早くこいと催促する。
言われた通り壱の方へと近づくと、雨でびしょ濡れになってしまい今にも崩れてしまいそうなダンボール箱が視界に映る。
それがどうしたのかと言う前にダンボール箱の中を指されて、喉まででかかった言葉を飲み込み体を前に倒す。
辺りの暗さよりも一段階ほど暗い色をしているダンボール箱の中を、細めた目でじっとみつめてみる。
しばらくして、雨の音に紛れて小さく音を立てている何かがいることが分かった。
「……猫、か?」
「へぇ、真っ暗やのによう分かったなぁ。凄いやん、豪くん」
「お前ぇはオレを何だと思ってんだ。で、お前がここに居んのとその猫に何の関係があんだよ」
ダンボール箱から壱へと視線を移すと、何かを考え込むような表情を作り出す。
その間暇を持て余すことになってしまうオレは、壱の体を抜けてダンボール箱の中に納まっている猫を抱き上げた。
猫の両脇に手を滑り込ませて持ち上げた所為で、体をだらんと垂らした状態になる。
それが不満なのか、オレの目を捉えるようにして鳴き声を上げる猫。
文句でもあるのかと問いかけるように睨み返してやると、返事をする代わりにまたひとつ、鳴き声を上げた。
たまたまオレの行動と猫の鳴き声が合致してしまったのだろうが、なんだか妙におかしいものを見た気分になった。
隣では、いつの間にか考え込むことを止めた壱がクスクスと笑い声を上げていたが、気付かない振りをして猫を抱き直した。
オレの体の中にすっぽりと納まった猫は顔を上げるようにしてまた一声鳴く。
先ほどとは違って、今は納得したとでも言っているような気がしたのも、あながち間違ってはいないかもしれない。
「たまたまここ通ったら、ダンボール箱見つけてん。やから俺な、ここにおることにしてん」
壱が口にした言葉の意味が分からず、オレは眉間に皺をよせて見返した。
すると「さっき豪くんが聞いたんやん」と言って、オレが捉えている相手は苦笑いを浮かべた。
そう言えば、さっきオレはそんなことを言ったような気がするが、猫に気を取られていてすっかり忘れていた。
場つなぎにと温い返事をすると、あからさまに困った表情を作り出した。
オレの中を見透かしているような表情を作る壱に、拳を作って軽く殴っておいた。
すると今度は、一層困ったとでもいうような表情を作る。
まるで「なんで?」と質問攻めをする子供を見ているような、そんな表情だ。
やはりこの男は、オレが理解しようとしてもしきれない構造をしている人間だ。
「そろそろ帰ろっかー、豪くん」
「おい、猫はどーすんだよ」
「んんー? そんなん豪くんと俺と猫、三人で一緒にご帰宅に決まってるやん。あ、猫は人やないから二人と一匹か」
同意を求めるように、壱は笑顔を浮かべてオレをみる。
小さく溜め息を吐き出した後、やはりオレが口にするのは温い返事だ。
もちろんその後に微妙な表情を貼り付ける壱がいるが、気にするのは止めた。
結局のところ気にしたって、考えたって、何もかも無駄なのだ。
オレとコイツが初めて顔を合わせた時から現在進行形で、会話をする時にこんなやりとりになるのは決まっているのだから。
壱が尋ねて俺が温い返事をして、それを聞いたコイツは困った顔をする。
このやりとりが今まで続いているのだから、俺が壱を気に食わないままなのも変わる筈がなかった。
今更なのだということをすっかり忘れていた。
「豪くんさぁ、なーんか気持ち悪いで?」
「お前ぇぶっ潰すぞ、コラ」
「豪くんは乱暴やからかなわんなぁ。そんな人にこの猫ちゃんは任せられんな、まったく」
壱はオレの膝の上から猫を抱き上げると、懐へと寄せて立ち上がる。
待てと口にする前に、傘を持っていない方の手で行動を静止させようとしたが、それを綺麗に潜り抜けて傘を手にする。
そしてオレの背を通りすぎ、歌を口ずさみながら軽い足取りで公園の出口へと向かっていく。
瞬間移動にも似た素早い行動にオレはなす術なく、壱の背中を尻目に溜め息を零した。
直ぐに追うことはせず、座りこんだまま傘を通して空を見上げてみると、少し明るい色を帯びてきていた。
そろそろ早朝と呼ばれる時間帯に入り込むのだなんてぼんやり考えていると、入り口でオレの名前を呼ぶ壱。
首だけを動かして遠くにいる男を見ると、恥ずかしいほど手を左右に振っている姿が目に入る。
オレが壱の方を見ているのだと分かると、今度は大きな声で早く来いと急かしてくる。
雨にかき消されているから良いものの、晴れた早朝ならば恥ずかしいこと極まりない。
「うっせぇんだよ! 静かにしろ、馬鹿が!」
「何てゆうてんのか聞こえへーん! 馬鹿ちゃうわ、阿呆や」
「しっかり聞こえてんじゃねぇかよ。つーか、阿呆ならいいのかよ」
もう、壱の何もかもが分からなさすぎて、最後には笑いしか浮かんでこなかったみたいだ。
しかしそれを悟られたくはない。
はっきり言って理由なんてものはない。ただそう思ったのだ。
だからオレは立ち上がりながら傘を傾け、口角が上がっているのを隠した。
「……昼頃には雨も上がりそーだな」
オレが足を進めだしたのを確認した壱は手を振るのをやめた。
そして、遠くから俺と目を合わせるようにしてなんの前触れもなく、笑った。