聞いてはならぬ
大きなもので遮られた壁と、中を薄暗いオレンジ色でぼんやりと照らされたふたつの重なり合った影。
俺の手に握られた丸いお盆の上には赤と青の湯のみがふたつ。
手と背中……いや、身体全体に糸がピンと張り巡らされたように、身体はぴくりとも動かなかった。
注いだ時にはゆらりと湯気が立ち上っていたふたつの湯のみからは、温かさが消えうせてしまっていて、口にすれば顔をしかめてしまう温度へと変わってしまっていた。
それなのに、この隔てをなくすことも、中身を入れ替えることも出来ず、ただその場で音を立てずに黙っているしかなかった。
いつから生唾を喉の奥へと招き入れていなかったのか、俺の口内から水分は消えうせ、ぴたりと張り付いて剥がれなくなるほどに渇ききっていた。
こんな時によそ者に出くわしていたら、きっと俺は直ぐにでも屍と化していただろう。
そう言ってもいい程に、身体は俺の思考を拒んで外へと押しやっているかのようだった。
頭の動きはいつも通りしなやかで、何が自分をこのようにさせているのかはしっかりと理解できる。
手を触れさえすれば、薄っぺらい壁なんていくらでも取り除くことは出来る。
しかし、この薄い隔ての向こう側では、俺の母親と俺の師匠であるこの家の主が、行為を行っているのだ。
行き成りの出来事に身体は自由を失ったが、悲しくも驚くことも、なにも感じるものはない。
力のある男が、全てを支配する。この世界では当たり前のことなのだ。
それを知ろうとも、聞きたくはなかったのだ。
聞いてはならない、と。
隔てられた向こう側から聞こえた、ガタンと言う大きな物音で、俺の身体に巻きつけられた糸が解け落ちるように下へと垂れ下がった。
その瞬間、俺は長い廊下を横切って中庭を駆けた。
なにも浮かびやしない身体の奥に、裏切りという不形成な言葉が一瞬通りすぎただけだったのだ。