漢字一文字10のお題

"苦"の続編的なもの。

部屋を後にしてから無音の広がる廊下を通ると、靴の裏がコツコツと立てる音が空間へと広がっていく。
それがとても心地の良いような、どこかもどかしいような、不思議な感覚として体に染み込んでくる。
先ほど粒状のものを取り出した懐へ手を入れ、愛用している煙草とジッポを取り出してさっと火を灯した。
前方に蛍光灯で点灯している禁煙≠フ文字が目に入るが、それを無視して通りすぎると、来客用に設置されたソファが現れる。

順序よく並べられたソファの中でも一際人目に付きにくい場所に腰を下ろすと、その衝撃で煙草の先が地面へと落ちた。
これは困ったと苦笑いを浮かべつつも、それを片付けるようなことはせず、視線が定まらない目を宙へと流しながら息を吐き出した。
軽く目を閉じて耳を済ませてみると、センターから若い女の話し声が聞こえるだけで、辺りは変わらず静まり返ったままだった。

無意識に出た溜め息と共に、口端から分かれるようにして煙が逃げていく。
空気に混ざるようにして消えていくそれを目で追っていると、なんと表せばよいのか分からない感情が湧き出し、困ったように笑う様子が浮かんだ。

「あんな言い方をして、少し言いすぎたのかもしれないな……」

口から零れた言葉が、空間を回って木魂するように男の元へと戻っていく。
先程自分に向けられた、明らかに自分のことを拒絶しているかのような表情に、自分の心が痛んでいることが分かる。

『自分がいなければ』、なんてそんなことはただのエゴであり、彼にとっては不愉快な言葉でしかないことも分かっていた。
だが、彼の崇拝する神にいくら祈りを捧げたとしても、症状がよくなることはないということにもはっきりとした確信を抱いていた。
誰から目を向けられることもなく、自分の元へとたどり着いた彼を救うことができるのは自分しかいないということも。

そこまで考えてから、男は頭から思考を消し去るように髪を掻きあげた。
手元から放たれる煙が薄ら薄らと上に向かって昇り続けて消えていくのを見て、力のない溜め息をもう一度吐き出した。

神様なんてものが本当にいると言うならば、必死に祈り続ける彼を見捨てたりはしないはずだろう。
安定と不安定の繰り返し状態の彼を何年もこの目に焼き付けている自分だからこそ、そう思う節がある。
そう思っていなければ、自分は彼にとって不必要な存在でしかないのだから。

「崇拝者を救ってくれもしないのに、神様なんてものはいやしないんだよ。そうじゃなきゃ、こんな現実は悲惨すぎるじゃないか」

時間と共に次第に短くなっていく煙草の長さと彼が、男の中でシンクロしていくようで不安を煽っていく。
それが妙に心細くて、小さく舌打ちをした後何もかもを消し去るようタイルの床に力を込めて煙草を擦り付けた。

途絶えてしまった立ち上る煙共に、男は薄っすらと力のない笑みを零して顔を伏せた。



2008.09.17. up.